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Arai Yuzuki

鮎川のいう〈函数性〉は、フッサールのいう感情移入に等しいと考えてよい。むしろ〈函数性〉は歌手が歌う一般のポピュラー音楽にこそ当てられるべき語だろう。というのも、歌手は作曲家や作詞家の考えた旋律や歌詞を〈函数〉として、つまり「自身の」メッセージとして包むからだ。ボカロの特性である無人称性(=鮎川のいう〈函数性〉)は、鑑賞者の歌手に対する感情移入のしやすさという観点に帰着する。ここで他我理論を引くことは場違いであるかもしれない。しかし、歌手が〈ゼロ化した主体〉であろうが〈非ゼロの主体〉であろうが、感情移入=函数性は起こりうる。まとめよう。鮎川のいう〈函数性〉は、感情移入のしやすさが歌手の人称性に対し反比例するといる観察である。それに付随して、 highland のいう〈透明性〉も同じ言明であることが分かる。すなわち、歌手に対して感情移入のしやすさがmaxであるという言明である。
この観察の方がより函数的ではないだろうか?考えてみよう。楽曲のオーサリングの役割には、作曲家と作詞家、そして歌手の選定者という項を導入する必要がある。歌手は、歌手の選定者の関数である。そして、歌手は感情移入のしやすさの関数である。すなわち、感情移入のしやすさは歌手の選定者の関数。